神話の力・英雄伝説(ジョーゼフ・キャンベル)
神話の力・英雄伝説
我々は、もはや独力で冒険に挑む必要は無い。
古今の英雄が道を拓いてくれている、迷宮は知り尽くされている。
我々はただ英雄の跡を辿ればいい。
そうすれば恐るべき怪物に遭うハズのところで、神に出会う。
他人を殺すハズのところで、おのれの自我を殺す。
外界へ旅をするハズのところで、自分の内面に辿り着く。
そして孤独になるハズのところで、全世界と一体になる。
モイヤーズとキャンベルのやりとりから

「千の顔を持つ英雄」とは、どういう意味ですか?

英雄は、それぞれの土地や時代によって、様々に異なりますが、実は彼らには決まった行動パターンがあります。どの英雄も同じ行動パターンを繰り返していて、まるで同じ人物のようです。同じ人物が「千の顔」を持って、いくつもの物語に登場しているかのようです。ですから、「千の顔を持つ英雄」なんです。

神話には英雄の物語がたくさんありますが、どうしてでしょうか?

それが「語り伝えられる値打ち」があるからです。神話以外の物語でも、主人公は英雄的な人物であることが多いですしね。英雄とは、普通の人が成し遂げたり、経験したりする以上のことを発見したり、やってのけたりする人のことなのです。何か自分より大きいもの、強いものに人生を懸けて挑んだりする人の物語です。そういうものは「語り伝える」に値するわけです。

先ほど「英雄には共通の行動パターンがある」といいましたが、それはどんなものですか?

それは2つ種類があります、1つは肉体的な行為です。英雄は、戦いという肉体的な行為を行います、そして他人の命を救います。他人のために自己を犠牲にし、自らの命を捧げるのです。

もう1つは精神的な行為です。英雄は人間の精神の「未知の領域」に踏み込むことを学び、その経験を人びとに伝えます。英雄は日常を超えた冒険の旅に出かけ、そして戻って来ます。「旅に出て、そして再び帰ってくる」というサイクルも、共通した行動パターンです。

そうであることもありますが、そうでないこともあります。例えばケルト人の神話にこんな話があります。ある英雄が、鹿か何かの動物に誘われて後を付いて行くうちに、それまで来たことのない深い森の中に入り込んでしまう。その動物が変身して妖精の女王になる。この場合、英雄は気がつくと冒険の最中にいたわけで、自分の意志で旅に出たわけではありません。

英雄の物語は、文化によって違うものですか?

文明の「進化の度合い」によって違いがあります。ごく初期の原始的な文明では、英雄は怪物退治に行くのが典型的な形でした。それは野蛮で危険な荒野で、人間が自分たちの世界を作り上げようとしていた時代です。そこには人間を脅かすものもあったでしょう。そこで英雄たちは怪物を退治していく。

英雄は思想や理念と同じく、時代と共に変化するのですね?

そう。文化が進むにつれて英雄も変化します。たとえばモーゼも1つの英雄像でしょう。彼はシナイ山に登り、山頂で神の言葉を受け取ります。そして全く新しい社会を作るための戒律「十戒」を持って帰るわけです。これは正しく英雄の行為です、モーゼは旅立ち、何ごとかを成し遂げ、帰ってくる、という英雄に共通のパターンを踏んでいるのです。

釈迦はキリストより500年前に生きた人ですが、キリストと非常に良く似た経験をしました。二人には共通する要素が数多くあって、弟子たちの性格までよく似ています。
キリストには典型的な英雄の行為が見られます、彼は荒野で3つの誘惑に遭いました。空腹だったイエスに悪魔が先ずこう言います、「この石にパンになれと命じるがいい」しかしイエスは答えます。「人はパンのみによって生きるのではなく、神の言葉によって生きるのです」。
次に悪魔はイエスを高い山の上に連れて行き、世界の国々を見せて言います「お前が私の前にひれ伏すなら、全世界をお前に与えよう」。しかしイエスは拒否します。さらに悪魔はイエスを神殿の上に立たせて言います、「お前が神の子なら飛び降りてみるがいい、神がお前を守ってくれるだろう」しかしイエスは答えます。「主なる神を試してはならない」こうして3つの誘惑を退けたのです。

釈迦も、同じように3つの誘惑を受けました。釈迦は修行の年月を経て、悟りの木である菩提樹の下に至り、そこで3つの誘惑を受けます。悪魔は第1に肉欲で誘いました、第2に恐怖心を抱かせて心を乱そうとしました。第3は世の中の掟に従い、多数の人の言いなりになれと誘いました。しかし釈迦は、そのいずれにも心を動かされませんでした。
こうして釈迦もキリストも試練を克服し、新たな境地に到達して、その経験を弟子たちに伝えました。これは精神的な偉業で、正に英雄の行為です。モーゼ、キリスト、釈迦、そしてマホメットもそうです。
マホメットは、ラクダのキャラバン隊を率いる商人でした。彼は山で小さな洞穴を見つけ、そこで瞑想に瞑想を重ねていました。するとある日、声が聞こえたのです、「書くのだ」それで、コーランが生まれたという訳です。

現代社会では、何が英雄の神話を生み出すのでしょう? 映画でしょうか?

それは分かりません。もっとも私が子供の頃は、確かに映画が英雄を生み出していました。その頃はまだトーキーではなく、白黒映画でした。映画に登場する英雄たちは、私にとってひとつの理想像でした。「あんなふうになりたい」と思ったものです。一番あこがれていたスターは、ダグラス・フェアバンクスです。私はダグラス・フェアバンクスと、レオナルド・ダ・ヴィンチを合わせたような人間になるのが夢でした。その二人が、私の英雄だったのです。

「スターウォーズ」のような映画は、「英雄の冒険」としての要件を満たしていますか?

完璧に満たしています。主人公たちは冒険に旅立ち、戦いで勝利を収め、そして帰還します。これは英雄の行動パターンに見事、あてはまっています。「スターウォーズ」は、単純な勧善懲悪な物語ではありません、人間の精神的な力まで描いています。

あの映画の素晴らしい点のひとつは「未知の世界」である宇宙へ、私たちを連れて行ってくれることです。昔の冒険物語でも多くの場合、未知の世界が舞台でした ―それが現代では宇宙なのです。私たちは今では地球を知り尽くしているので、地上ではもう「想像力をかきたてる」冒険は成立しにくくなっています。しかし宇宙という、まだまだ未知の空間でなら、自由に想像の翼を広げることが出来るのです。

「スターウォーズ」などの映画には、神話に登場するような英雄が描かれていると言えるのでしょうか?
監督のジョージ・ルーカスはあの映画で、確かに英雄と言える人物を登場させています。オビ=ワン・ケノビがそうです、主人公ルークの助言者であるケノビは、日本の剣術の達人を連想させますね。そして、若者が出会った人物からモノを授かったり、助言を受けたりするのが神話的ですね。ルークは光の剣を授けられましたよね?

ケノービは、ルークに形のあるモノを与えるだけではありません、精神的なものも授けるのです。光の剣で訓練をするとき、マスクを被りますが、あれはまるで日本の剣道のようです。また、ハン・ソロもはじめは我欲のために行動していましたが、最後は英雄になった。

冒険によって、彼の中に眠っていた性質が呼び覚まされたのです。ソロは自分を利己主義者だと思っていますが、本当は愛すべき人物です。世の中には、そういう人がたくさんいます。本人はエゴで動いているつもりなのですが、実は、何か他の大きな何かが彼を動かしているのです。
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